岩手県の沿岸部を走るJR山田線は、その立地から東日本大震災とその津波により甚大な被害を受けました。
BRTによる仮復旧を反対し、鉄路に拘って復活させた沿線自治体の熱い思いとともに、三陸の未来を考えていきます。
東日本大震災とJR山田線
2011年3月11日に発生した東日本大震災では、海岸沿いを走る鉄道路線についても大きな被害をもたらしました。
JR山田線は、盛岡駅と宮古駅を東西に結び、宮古駅から釜石駅までは南北・リアス海岸沿いを走る風光明媚な路線です。
そんな山田線についても大きな被害を受け、特に津波による影響をもろに受けた宮古駅〜釜石駅では、8.5kmに渡る浸水被害に加えて、駅舎7ヶ所・橋梁6ヶ所が大きな損壊をしてしまいました。
内陸部を横断する盛岡駅〜宮古駅は復旧がされたものの、海岸沿いを結ぶ宮古駅〜釜石駅では損傷が激しいこと、多額の費用をかけても元々が赤字路線であることもあり、なかなか復旧に至らずにいました。
沿線自治体は「鉄道」に拘った
震災から8年。
JR自力で復活させても今まで以上に採算が取れない一方で、沿線自治体と地域住民の熱い思いにより、「鉄路」による復活が実現しました。
震災直後の2012年には、JR東日本から沿線自治体にBRT(バス・ラピッド・トランジット=バス高速輸送システム)での仮復旧が提案されましたが、線路の被災が大きく専用道比率が低いこと、既存の民間路線バスと競合していること、まちづくりとして鉄路の復活が前提であることなどを理由に拒否した経緯があります。
JR側としてはやはりバスでの復活が本命だったのか、翌2013年にも専用道を大幅に増やした案を提案するも、地元4市町は再び拒否しています。
2014年1月に、JR東日本から210億円と試算されていた復旧費用のうち、原状回復に必要な2/3の自社負担に加えて10年間の赤字補填分5億円を負担、更に線路や駅などの鉄道施設の無償譲渡という大盤振舞いをする代わりに、直接の経営からは退くという大きな方向転換が提示されました。
沿線自治体としては赤字路線を引き継ぐという大きなデメリットこそあるものの、念願だった鉄道での復旧の道筋が見えてきたこともあり、難しい判断を迫られることとなります。
慎重な姿勢を示した沿線に対し、7月には更に被災していない区間のほとんどの線路を三陸鉄道水準の高規格化(レールと枕木の更新)や橋梁・トンネルの修繕もするという追い込みの発表もありました。
これにより、2014年8月から、山田線・宮古〜釜石駅間を三陸鉄道路線とする方向で調整が進むこととなりました。
最終的に、先述の赤字補填分も30億円と大幅増額することとなった他、従来の北リアス線・南リアス線を含めて「三陸鉄道リアス線」で統一されることとなり、1984年の開業以来飛び地となっていた三陸鉄道がついに1つに結ばれるという歴史的な変化となりました。
この飛び地の解消による効率的な経営という偶然が、三陸鉄道を後押ししたこととして挙げられるでしょう。
運転再開やクウェートからの気動車寄贈など、三陸地域の復興の象徴として度々話題となった三陸鉄道。
久慈駅〜盛駅の全長163.0kmという路線長は、第三セクター鉄道路線での日本最長となりました。
今後は一つのリアス線としてピークの1/5まで落ち込んだ三陸鉄道の利用者をどこまで戻せるかが鍵となってきます。
JRも「山田を通らない山田線」という珍路線に
三陸鉄道経営移管区間である宮古〜釜石駅間には、路線名の由来となった山田町を含んでいます。
今回の経営移管により、山田線は盛岡駅〜宮古駅を結ぶ東西方向の路線のみが残ることとなり、山田町を通りません。
しかしながら、現在のところ名称の変更は行われておらず、山田を通らない山田線という不思議な状態となっています。
同様の形態は同じく第三セクター化によって分断された信越本線や、未成線のまま夢に終わった上州アクセスの東武東上線などが有名なところです。
そんな山田線も、盛岡駅〜宮古駅はバスとのシェア争いでかなり苦戦を強いられている路線です。
今回の三陸鉄道経営移管が赤字路線の切り捨てだったと言われないようにするためにも、今後ますます力を入れてくるであろうJR東日本の観光促進などに引き続き注目です。
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